PROFILE & WORKS
★プロフィール
川喜田 八潮(かわきた やしお)劇作家・文芸評論家。1952年京都市生まれ。京都大学工学部中退。後、同志社大学文学部に編入学・卒業。駿台予備学校日本史科講師、成安造形大学特任助教授を歴任。1998年より2006年まで、文学・思想誌「星辰」を主宰。2016年に、川喜田晶子と共にブログ「星辰-Sei-shin-」を開設。批評文・書評など多数掲載。著書に『〈日常性〉のゆくえ―宮崎アニメを読む』(1992年 JICC出版局)、『脱〈虚体〉論―現在に蘇るドストエフスキー』(1996年 日本エディタースクール出版部)、『脱近代への架橋』(2002年 葦書房)。時代小説『闇の水脈 天保風雲録』(2021年 パレード)、『闇の水脈 愛憐慕情篇』(2022年 パレード)他。
★主要モチーフ
私の文芸評論家としての活動は、以下に述べるように多岐にわたっていますが、自分としては、一貫してひとつのテーマにこだわり続けてきたように思います。
それは、次のようなものです。近著『J-POPの現在Ⅰ〈生き難さ〉を超えて』(2019)の「まえがき」より引用してみます。
*****************
現在の〈生き難さ〉とは何か、それを超えるにはどうすればよいのか。
文芸評論家である私の問題意識はいつも、いたってシンプルである。
これまで展開してきた自分の批評の営みも、この問題意識に基づいている。論じる対象が、宮崎アニメや『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品であれ、ドストエフスキー作品のような古典であれ、宮沢賢治や太宰治といった近現代の作家や詩人たちであれ、本書で扱ったJ-POPの作品であれ、同じ問いを立てているのである。
作品を通して、私たちの〈生き難さ〉の本質を見極め、それを超える闘いの姿を浮かび上がらせたい。そういう私の表現が、同じ〈生き難さ〉を抱える無名の生活者の実存に届き、それぞれの内省のよすがとなるなら本望なのである。
私たちの存在を根源的に支える不可知なるコスモスとしての〈闇〉が、近代化の過程で見喪われてゆくにつれ、私たちの魂の〈生き難さ〉の感覚と、それに対する超克の闘いは厳しさを増し、2020年代を迎えようという現在もなお、きわめて深刻な様相を呈している。
個人が、これほど〈闇〉から切り離されて存在している時代はかつてなかった。
合理的・可視的にしか規定されない、存在と世界のもろさ・狭さ・平板さに、誰もが無意識を痛めつけられ、生存感覚の弾力を失い、魂を病んでいる。
私の言う〈闇〉とは、そのような合理的・可視的な世界よりもはるかに深いところで私たちを支える、存在と世界の究極の意味の源泉のようなものだ。
近代化とは、その〈闇〉の喪失・解体の過程にほかならない。そして〈現在〉は、その解体の過程の最終局面に位置するのだ。
私たちの〈生き難さ〉を超える闘い、それはそのまま〈脱・近代〉という新しい時代を切り拓く闘いでもある。
******************
簡潔な文章ですが、これまでの私の批評営為の核心的なモチーフを、端的に言い表わしたものとなっています。
私は、1992年の春に、宮崎駿アニメ論『〈日常性〉のゆくえ』を刊行し、文芸評論家としての活動を始めました。それから、ドストエフスキー論、日本近代精神史の執筆、日本近現代の作家・詩人たちの作品論、絵画批評、戦後のサブカルチャー作品や時代小説を材とする戦後精神史論、さらには、ドゥルーズやスピノザの書評など……さまざまな領域にわたって評論を書き続けてきました。
私は、今、この「ホームページ」用の文章を「2022年・初夏」に書いています。
文芸評論家としてスタートしてから、ちょうど30年という歳月が経ちました。
その30年の間に、さまざまな思想的な悪戦苦闘がありました。
私にとって、評論を書くという営みは、生き抜くことそのものであり、生活することと切っても切れない関係にあります。といっても、「文章を売る」ことで糧をかせぐという売文業者になりたいと思ったことは一度もありませんから、生き抜くために書くといっても、あくまでも、メンタルな次元において、ということです。
現実の社会や世界に対峙しながら、実生活を守り、支え、己れの生存空間を切り拓くためには、魂を武装する必要があるのです。物質万能主義の社会、科学万能主義の社会、商品社会の圧に負けないために、そしてまた、諸々の社会的・制度的な価値観、組織や集団の要請、情報・知識の洪水に翻弄されないために、魂を守らねばならなかったのです。
私にとって「書く」という行為は、生き抜くために、そのつど直面した精神的・思想的な「課題」に真向かうことでした。
ですから、好きな事をしてきた、という実感が私にはありません。
ただ、課題と取り組むことが「必要」だから、そのつど、必死に命懸けで取り組んできたというだけです。いたって個人的な、孤独な営みなのです。
でも、自分のために書く。自分の中の「理想的な読者」に向かってのみ書く、という営みは、私にとっては、とても純粋で充ち足りた時間でした。愉しい時間でした。
そのささやかな個人的な成果を、えにしある人たちに黙ってさし出すこと。
本を刊行するとは、私にとってそのような営みであり、ブログ「星辰ーSei-shinー」で文章を発表するのも、同様です。
私の直面してきた「課題」は、批評対象によってさまざまでしたが、その課題に取り組む原動力となってきたのは、つねに、上述の引用文のようなモチーフでありました。
これまでの30年に及ぶ私の思想的な悪戦苦闘による到達点のひとつが、近年刊行した『J-POPの現在Ⅰ〈生き難さ〉を超えて』(2019 パレード)と『J-POPの現在Ⅱ かたわれ探しの旅』(2020 パレード)であると言ってもよいかと思います。
歌人である妻の川喜田晶子との対談で、軽快かつ繊細な妙味があり、とても分かりやすく話し言葉で書かれておりますので、私の仕事に興味を持たれる読者の方には、お勧めの本となっております。
素材は、J-POP作品という、一見軽い、大衆文化的なものですが、歌詞の読み解きを中心にして論じられている本の中身は濃く、先に引用したモチーフにもとづく、思想的な永続性を持った重厚なものです。
また、私のこれまでの思想及び表現のエッセンシャルな集大成とも言うべきものが、現在刊行中の時代劇戯曲『闇の水脈』シリーズです。
全三部作ですが、昨年(2021年)秋に、第一作『闇の水脈 天保風雲録』を刊行いたしました。
本年(2022年)の秋には、第二作『闇の水脈 愛憐慕情篇』を刊行します。
第三作も、来年以降、刊行する予定です。
対話劇中心の戯曲ではありますが、作品によっては、対話劇と小説的描写、つまり、「セリフのやりとり」と「ト書き」が烈しく交錯し、一体となったものもあり、作品群全体の空気感としては、純然たる戯曲というより、むしろ広義の「時代小説」と呼ぶ方がふさわしいのではないか、と思っております。
私の思想の「集大成」ではありますが、エンターテインメントとしても手に汗握る面白さなので、多くの読者の方々に、〈物語〉そのものをリクツ抜きに愉しんで頂ければ、「劇作家」としては幸せに思います。
よろしければ、書店で手に取られるか、インターネットで注文してみて下さい(「著作の購入はこちら」のページから、アマゾンのページへ飛びます)。J-POP論共々作者お勧めの作品です。
2022年 初夏
川喜田 八潮
★主要著作一覧
『〈日常性〉のゆくえ―宮崎アニメを読む』(1992年 JICC出版局)
『脱〈虚体〉論―現在に蘇るドストエフスキー』(1996年 日本エディタースクール出版部)
『脱近代への架橋』(2002年 葦書房)
『J-POPの現在 Ⅰ〈生き難さ〉を超えて』(2019年 パレード)
『J-POPの現在 Ⅱ かたわれ探しの旅』(2020年 パレード)
『闇の水脈 天保風雲録』第一部・第二部(2021年 パレード)
『闇の水脈 愛憐慕情篇』第一部・第二部(2022年 パレード)
『闇の水脈 風雲龍虎篇』(2024年 パレード)
★主要評論文一覧(著作に未収録の主な評論文を以下に列挙しておきます)
「〈光〉の源泉としての〈闇〉―宮崎駿『風の谷のナウシカ』の世界視線」(1995年 「現代詩手帖」10月号)
「批評とアクチュアリティ―古典の力」(1996年 「現代詩手帖」9月号)
「漂流する無意識(一) 遍在する〈死〉のイメージ」(1998年3月 「路上」第79号)
「漂流する無意識(二) 花のゆくえ―貞久秀紀論―」(1998年7月 「路上」第80号)
「漂流する無意識(三) 闇への凝視と解放のありか―村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』解読―」(1998年10月 「路上」第81号)
「〈龍〉と蘇生―「星辰」創刊の辞に代えて―」(1998年秋 「星辰」創刊号)
「『失楽園』現象の底に潜むもの」(1998年秋 「星辰」創刊号)
「太宰治と〈悪〉(一) 「中期」太宰治の変容―表現と実生活をめぐるアポリア―」(1998年秋 「星辰」創刊号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「太宰治と〈悪〉(二) 『右大臣実朝』と宿命」(1999年春 「星辰」第2号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「近代批評の終焉―小林秀雄の病理をめぐって―(上)」(1999年春 「星辰」第2号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「太宰治と〈悪〉(三) 「後期」太宰治の逆説―浮上する悪―(一)」(1999年夏 「星辰」第3号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「近代批評の終焉―小林秀雄の病理をめぐって―(中)」(1999年夏 「星辰」第3号)
「自我と生命の境界―『新世紀エヴァンゲリオン』再考―(上)」(1999年夏 「星辰」第3号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「太宰治と〈悪〉(四) 「後期」太宰治の逆説―浮上する悪―(二)」(1999年秋 「星辰」第4号)
「近代批評の終焉―小林秀雄の病理をめぐって―(下)」(1999年秋 「星辰」第4号)
「自我と生命の境界―『新世紀エヴァンゲリオン』再考―(下)」(1999年秋 「星辰」第4号)
「闇の喪失―ある戦後世代の追憶―」(2000年冬 「星辰」第5号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「初期中島みゆき論―七〇年代後半という時空―」(2000年冬 「星辰」第5号)
「七〇年代の分岐点―初期藤沢周平作品の闇―」(2001年冬 「星辰」第6号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「宮沢賢治童話考(上)」(2003年春 「星辰」第7号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「リアリティーはどこにあるか」(2003年春 「星辰」第7号)
「宮沢賢治童話考(中)」(2004年春 「星辰」第8号)現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「川喜田八潮公開インタビュー『失われた闇の世界』」(2004年春 「星辰」第8号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。
「宮沢賢治童話考(下)」(2005年春 「星辰」第9号)→現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に再掲。*
*「宮沢賢治童話考」は、「星辰」第9号まで連載されたところで中断されましたが、後に、ブログ「星辰―Sei-shin―」に、続論(「三人兄弟の医者と北守将軍」及び「北守将軍と三人兄弟の医者」論)が掲載され(2016年10月~12月に掲載)、ようやく全体が完結しました。現在は、ブログに、旧「星辰」の分も含めた全論考が収められているので、まとめて読むことが可能です。
「続・中島みゆき論(上)」(2005年春 「星辰」第9号)
「続・中島みゆき論(中)」(2006年春 「星辰」第10号)
「続・中島みゆき論(承前)」(2006年秋 「星辰」第11号)
「闇の水脈―日本近代詩人論1 萩原朔太郎」(2002年秋 「道標」第3号)
「闇の水脈―日本近代詩人論2 金子光晴」(2003年春 「道標」第4号)
「闇の水脈―日本近代詩人論3 中原中也」(2003年秋 「道標」第5号)
「闇の水脈―日本近代詩人論4 吉本隆明」(2004年春 「道標」第6号)
「闇の水脈―日本近代詩人論5 谷川雁(上)」(2004年秋 「道標」第7号)
「闇の水脈―日本近代詩人論6 谷川雁(下)」(2005年春 「道標」第8号)
「闇の水脈―日本近代詩人論7 寺山修司(上)」(2005年秋 「道標」第10号)
「闇の水脈―日本近代詩人論8 寺山修司(下)」(2005年冬 「道標」第11号)
*以上「闇の水脈ー日本近代詩人論ー」は、現在、ブログ「星辰ーSei-shinー」に「反逆の詩魂ー日本近代詩人論ー」の(一)~(六)として再掲しています。
「喪失と回帰:萩原朔太郎と梥本一洋」(2003年 成安造形大学学術活動報告 平成十四年度)
「具象絵画の蘇生―脱近代の地平に向けて(一) 一、岡田修二」(2004年 成安造形大学学術活動報告 平成十五年度)
「具象絵画の蘇生―脱近代の地平に向けて(二) 二、児玉靖枝」(2005年 成安造形大学学術活動報告 平成十六年度)
「具象絵画の蘇生―脱近代の地平に向けて(三) 二、児玉靖枝(承前)」(2006年 成安造形大学学術活動報告 平成十七年度)
「具象絵画の蘇生―脱近代の地平に向けて(四) 二、児玉靖枝(承前)」(2007年 成安造形大学学術活動報告 平成十八年度)
「書評 ジル・ドゥルーズ『スピノザ』」(2016年4月~6月 ブログ「星辰ーSei-shinー」)
「書評 スピノザ『エチカ』」(2016年7月~2017年1月 ブログ「星辰ーSei-shinー」)
「芥川龍之介と闇」(2017年2月~7月 ブログ「星辰ーSei-shinー」)
「東映初期カラーアニメーションのコスモス―『少年猿飛佐助』と『白蛇伝』を中心に―」(2017年8月~2018年9月 ブログ「星辰ーSei-shinー」)
■「星辰」(旧「星辰」)は、私(川喜田八潮)の単独編集による文学・思想誌で、1998年から2006年まで、8年間にわたり、創刊号から第11号までが発行されました。
上記主要評論文の内、旧「星辰」に発表された文章は、特定の直接購読者のみを対象として書かれたものであり、ブログ「星辰」という、不特定多数の読者に向かってひらかれたものとは、性格が異なります。ブログ「星辰ーSei-shinー」では、旧「星辰」に収められた文章の内、内容が過激すぎたり、個人のプライバシーに関わるものは除外した上で、ブログに掲載しても差しつかえないと当方が判断した論文のみを公開しています。
ただし、ブログ「星辰」に掲載するに当たっては、旧「星辰」の論文に一部加筆・修正を施したものがあることをお断りしておきます。
★自著解説文
#『〈日常性〉のゆくえ』(1992年 JICC出版局)
私の第一評論集であり、わが国初の本格的な宮崎駿アニメ論です。二部構成となっており、第一部では、私の思想の中心的なコンセプトの一つである〈闇〉の本質を見極めることがテーマとなっております。
先の「主要モチーフ」の項目での引用にもあるように、私たちの生存感覚を支える不可知なるコスモスを、私は〈闇〉という言葉で呼んでいるのですが、それは、生命と虚無、創造と解体の重層的な両義性を備え、個体としての私たちに宿りながら、その輪郭を超えて、森羅万象に拡がっている、大いなる渾沌(こんとん)としてのいのち=コスモスであると言ってよいかと思います。
それは、死や虚無や不条理の源泉であると共に、生命の輝き、生きることの歓び、生の奇跡の源泉でもあります。
この〈闇〉の本質を、繰り返し、私は批評営為を通してみつめ直してきました。(宮崎作品に即した形で言うなら、この問題についての私の思想をコンパクトに凝縮した論の一つに、「〈光〉の源泉としての〈闇〉――宮崎駿『風の谷のナウシカ』の世界視線」[「現代詩手帖」1995年十月号]がありますので、参照いただければさいわいです。)
本書『〈日常性〉のゆくえ』においては、そのモチーフは、高畑勲監督のアニメ『火垂るの墓』と宮崎駿監督のアニメ『となりのトトロ』との鋭い〈対比〉によって追求されております。
前者を虚無的な〈闇〉へのまなざしと呼ぶならば、後者は、それへの修復・癒しをもたらす生命的な〈闇〉へのまなざしと呼ぶことができるでしょう。
この〈闇〉の両義性へのまなざし、立ち位置をいかに設定しうるかによって、私たち一人ひとりの世界観(世界視線)は大きく異なり、ひいては、日常性と実生活に真向かう時の私たちの〈主体性〉のあり方もまた、大きく異なってくるのです。
私たちの〈個〉としてのあり方は、つねに、私たちに宿りながら私たちの存在の輪郭を超えて森羅万象へと拡がる「渾沌」としてのコスモス、いわば〈類〉としてのコスモスによって規定されておりますが、私たちが己れの〈主体性〉のあり方をいかにつくり上げるかによって、私たちと〈類〉との関係性もまた変容し、私たちの運命もまた、大きく異なってきます。
その意味で、私たちにとって、生の究極の心棒となるべき思想は、つねに不可知なるコスモスの中での己れの〈主体性〉のかたち、立ち位置をどうつくり上げるかにかかっていると言ってよいのです。
私は、本書で、自身に対して、また読者に対して、その問いかけを妥協なく発したつもりです。
評論家としてスタートしたばかりの、まだあまりにも未熟な「若書き」の評論集ですが、思想的な鮮度は、今もなお、失われていないと考えています。
さて、〈闇〉の息づかいの感受は、生身の身体性によってなされますが、私たちの身体性は、さまざまな観念的なペルソナ(仮面)によって、その働きを封じられています。
成長過程において、家族や人間関係を通して刷り込まれた既成観念、諸々の社会的制度的な観念的規制、身にまとった文化的な衣装、さまざまな情報・知識……といったものによって、私たちの感性は鈍磨させられています。
それが、私たち現代人の、いわば衰弱した身体性というものです。
しかし、良きにつけ悪しきにつけ、私たちの生活を規制し、また支えてもいる、それら諸々の観念の被膜の〈間隙〉を縫いながら、私たちは〈闇〉の息づかいをすくい取ることができます。本書のもうひとつのモチーフが、その生身の身体性のあり方をめぐる問いかけです。
「第一部」の『となりのトトロ』論では、サツキとメイという主人公の子供たちの魂のあり方に寄り添いながら、私たち自身の生身の身体性を、より大きな生命的振幅へと徐々に解き放ってゆくプロセスを丁寧に追跡しています。そして、「第二部」では、生身の身体性をめぐる問いかけは、観念的なペルソナによって演出された疑似身体性、すなわち、一見すこやかな生身の身体性のようにみせかけられたヴァーチャルな身体性への〈異和〉という形で表現されています。
そのために、宮崎駿監督のアニメ『魔女の宅急便』と、児童文学作家・角野栄子氏の原作(小説)の対比を行ない、つらいことでしたが、前者のアニメを厳しく批判せざるを得ない内容となってしまいました。そして、アニメへの批判とは対照的に、角野氏の繊細で素朴な温かみのある原作『魔女の宅急便』の読み解きを通して、私たちの〈日常性〉のふくらみ、〈実生活〉の奥ゆきというものを深くみつめ直してみました。
私は、本書『〈日常性〉のゆくえ』に永続性のあるテーマ・思想を込められたことに誇りを抱いておりますし、今もなお愛着を持っておりますが、同時に、さまざまな痛い思い出もあり、振り返ることがつらい作品でもあります。特に、高畑勲氏に対する、過剰とも言える辛辣な批判は、氏を深く傷つけたのではないかとも思い、長年の間、私自身苦しんできました。
氏のアニメ『火垂るの墓』は、人間の魂のダークサイド、時代の病理を剔抉(てっけつ)するという近代文学の価値尺度から言えば、もちろん第一級の優れた作品ですが、そこで表現された虚無的な闇のどす黒い吸引力、表現の衝迫力というものは、私たちの生命的な〈主体性〉のあり方、実存というものを、デッドロックへと追いつめてゆく力を持っています。
この作品で象徴的に描かれた、どす黒い〈闇〉、死臭に対峙しながら、生命の歌をうたうことは、いかにして可能なのか? この問いかけを常に握りしめながら、当時、私は『トトロ』論を書き続けていました。私にとって、この問いかけは、当時、魂の死活問題だったのです。
その緊迫感のあまりの強さのゆえに、私は高畑氏に対して、本書のような過酷な批判をしてしまったのです。
それに、映画館には、多くの子供たちがおりました。
幼い子供の魂に、このような地獄を〈原風景〉として刻印するのはよろしくない、と思ったのです。
もちろん、当時の私の、世界に対する〈孤絶感〉の深さとその〈裏返し〉ともいえるエキセントリックな気負いの強さもまた、本書の「とんがった文体」を生み出す要因になっていたと思います。
本書には、高畑氏の件のほかにも、つらい想い出がいくつかありますが、その辺の事情については、「川喜田八潮公開インタビュー――失われた闇の世界」という、成安造形大学の学生たちによるインタビューの中でも、一部語られており、ブログ「星辰-Sei-shin-」にも掲載してありますので、お読みいただければと思います。
アニメ『魔女の宅急便』についての思い出も、私にはつらいものです。
この可愛らしい、ほのぼのしたアニメを愛している方々もたくさんおられることでしょうから、私の『魔女宅』論を読まれて傷ついた人たちもずい分おられるかと思うと、胸が痛みます。
なにも、口角泡を飛ばす勢いで、あんなにボロクソに言わなくたっていいじゃないか、と思う人もおられましょう。
もちろん、今なら、あんなに「大人げない」ことはしませんし、したくはありませんが、先ほども述べたように、それはそれとして、このアニメに象徴される「疑似身体性の病理」の問題は、このアニメへの「好き嫌い」とは全く別の次元で、今なお、無視できぬ〈現在性〉を持っていると、私自身は考えています。
そして、アニメの『魔女宅』を愛する人にも、ぜひ角野氏のすばらしい原作をお読みいただきたい、と考えています。
さらにひとこと言い添えるなら、宮崎駿監督は、後に、『千と千尋の神隠し』という、「生身の身体性と日常性の深み」を鋭く見据えたすばらしい作品をつくることで、私の『魔女宅』批判に美事に応えてくれたと考えています。